
Googleマップで、大凡の「中国大返し」の距離、備中高松城跡から宝積寺(秀吉の本陣)までを国道2号線経由で調べたら、距離198km、徒歩で46時間。不眠不休で歩き続けた場合だ。死んじまう。
「中国大返し」とは
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)軍が、備中高松城陣中で籠城する毛利軍と対峙していた時に「本能寺の変」の知らせを受け、急ぎ毛利と和睦して京へ向かって行軍した行程のこと。
子供の頃に視聴した大河ドラマの作品は失念したが、ナレーションで、
「秀吉軍は、備中高松城の陣中から京までわずか6日間で戻った。世に言う『中国大返し』である」
と、仰々しく言われると、なんかよくわかんないけど、すごいことだったんだなぁと漠然と思ったものだった。
現在は出発日と到着日の解釈および移動過程の史実見直しがされ、秀吉が備中高松城陣中で本能寺の変を知った日から山崎の合戦までが10日間、中国大返し始動から山崎の合戦までが7日間になる。
経過日数と行程日数
- 本能寺の変〜山崎の合戦:11日間/12日間
- 変報受領〜山崎の合戦:10日間/11日間
- 中国大返し〜山崎の合戦:7日間/8日間
諸説あるが、備中高松城から山城山崎までの距離は約200km。8日間のうち1日は姫路城で休息しているので、行軍したのは7日間になり、5日間は雨天で大雨もあったそうだ。
中国大返しの行程
▼天正10年6月6日昼〜7日夜
約22km:備中高松城〜備中沼城(亀山城)
約70km:備中沼城〜姫路城
▼6月8日
全軍に休息と兵糧・軍資金の配布
▼6月9日朝
約35km:姫路城〜明石
▼6月10日
約18km:明石〜兵庫
▼6月11日
約26km:兵庫〜尼崎
▼6月12日
約23km:尼崎〜富田
▼6月13日(山崎の合戦)
約6km:富田〜山崎
※総距離:200km/行軍日数:7日間
文末のサイトでは、備中沼城から姫路城までの90kmは、兵士の負担を大きく軽減し、行軍速度を向上させるため、武器や甲冑、兵糧など重量物は船で運搬したのではないかと提唱する、歴史ライター・西股総生氏の「海路利用説」と、行程全般では、予め水や兵糧、宿泊施設、交換用の馬などが準備されていた「御座所(ござどころ)」が整えられていたのではないかと提唱する、城郭考古学者・千田嘉博氏の「御座所説」が紹介されていて、中国大返しを極めて円滑に進めるのに、十分に考えられる仮説と述べている。
持論
戦国時代の兵士の行軍は1日7〜8時間で、通常は20〜32km(5〜8里)、強行軍は40km(10里)以上だった。江戸時代の旅人の1日(8〜10時間)の移動距離は、老若男女(数え年15歳以上)で差異はあるが、約24〜40km(6〜10里)だった。したがって、旅人でも約6日〜8日半で中国大返しができる計算になるので、行軍日数が目を見張るほど短かったわけではない。
但し、旅人の荷物はできるだけ少なく軽くするのが基本だった。今だったらウエストポーチや中サイズ以下のショルダーバッグを身につけて歩く感じだ。
兵士が装備する甲冑(兜・鎧)、手足の防具、刀・槍・鉄砲などの総重量は10〜15kgになる。兵士の装備の重さを今風に例えると、毎日ウォーキングをしている人が、ハーフヘルメットに1〜2kgの錘を入れて冠り、ボディウェイトを肩や胴体に、アンクルウェイトを脚に巻き付け、ショートボードやスキー板を持ったり担いだりして、雨の中を歩くようなものだったのだ。
よって、中国大返しのいちばんのハイライトは、6月6日昼〜7日夜の一昼夜半を昼夜兼行で90kmも行軍したことだろう。
本能寺の変から山崎の合戦までの行程内容
▼天正10年6月2日
(ユリウス暦1582年6月22日)
(グレゴリオ暦1582年7月2日←現在使用の西暦)
:本能寺の変
▼6月3日夜〜4日未明
:明智光秀が毛利方に送った密使を捕縛し、備中高松城陣中にて変報の受領。
▼6月4日〜5日
:京の豪商・長谷川宗仁から信長横死の書状を受け取る。
:毛利との和睦交渉(備中高松城)
:城外の水上の舟の上で城主清水宗治の切腹により毛利氏と和睦成立。撤退を極秘に準備。
▼6月6日 昼(進軍開始)
:中国大返し始動。豪雨の中、備中高松城から備中沼城(亀山城)へ行軍(約22km)
▼6月7日夜
:姫路城へ帰還(約70km)
▼6月8日
:全軍に休息と兵糧・軍資金の配布。毛利軍の追撃に備え、諸将への書状発信を行う。
▼6月9日朝
:姫路城から明石へ行軍(約35km)
▼6月10日
:配下の仙石秀久に洲本城の反乱鎮圧を命じる。
:自軍は兵庫へ行軍(約18km)
▼6月11日
:兵庫から尼崎へ行軍(約26km)
:諸将合流。淡路の池田恒興や、摂津の中川清秀・高山右近ら大名が秀吉軍に臣従。
▼6月12日
:尼崎から富田へ行軍(約23km)
:軍議(総勢数万)。織田信孝(信長の三男)や丹羽長秀らと合流し、連合軍の体制を確立。
▼6月13日(山崎の合戦)
:富田から山崎へ行軍(約6km)
:秀吉本陣は天王山の宝積寺(山崎城)
:明智光秀軍を撃破。光秀は敗走中に落ち武者狩りに遭い死亡。



















