昨日の昼は、毎年恒例『栃木家』での「花見の宴」だった。
花見の宴とは、市川JCを卒業した同期をはじめ、OBや友人、知人にも参加いただき、年に1度集う昼飲み会だ。栃木家を利用するようになってかれこれ10年以上になる。
一昨年の花見の宴では、わたしは家の事情で欠席したが、桜がまだ蕾で、
「どこが花見の宴なんだ」
と、言うことになり、仕切り直しの花見の宴に出席した。
昨日は満開から2週間過ぎ葉桜だったが、桜を愛でるのは最初だけ。美味しい料理をいただきながら、旨い酒を飲み、桜吹雪の中(大袈裟)談笑し、やがて酔っ払っちまえば、桜のことも忘れていつも通り、翌日になると栃木家も2軒目もところどころ記憶がぶっ飛んでいる。それほど楽しい酒宴ということだ。











市川の料亭は栃木家1軒だけ
戦前の市川の国府台(こうのだい)には、陸軍の野砲兵連隊・陸軍病院などが置かれ、軍都市川として栄えた。また、花街でもあり、真間(まま)・菅野(すがの)周辺には大小200の料亭・割烹があったそうだ。
時代は下り、わたしが30代の頃になると、料亭は大松、白藤、栃木家の3軒になっていた。そして、昭和2年(1927年)創業の大松は、平成27年(2015年)に廃業。昭和5年(1930年)創業の白藤は、令和2年(2020年)に廃業。明治17年(1884年)創業の栃木家のみとなった。
空襲で全焼した栃木家
以前、女将から、昔の栃木家は千葉街道(国道14号線)の中央分離帯までお店の敷地だったが、拡張工事1でセットバックしたことを聞いたことがあった。確かに大正時代に撮られた写真を見ると、千葉街道は狭く三本松の左側に道路はない。(手前が東京方面、先が千葉方面)

懐古的なわたしは、明治創業の栃木家ですから、昔の栃木家や周辺の街並みの写真がたくさんあるだろう、見せてもらおうと思っていた。
しかし、毎度毎度花見の宴では女将に聞くことを失念してしまい、昨日も帰り際になって思い出し、ようやく聞くことができたのだが、女将は戦前の写真は空襲でお店が全焼したので、何も残ってないというのだ。
太平洋戦争中、アメリカ軍が市川を空爆目標としたことはない。東京方面への空爆で残った焼夷弾や爆弾が落とされていた。栃木家は昭和20年2月25日の空襲で全焼し、現在のお店は戦後に再築したものだった。戦前の写真が1枚も残っていないのは残念でならない。

- 昭和33年(1958年)、市川広小路〜新田胡録神社辺り ↩︎
















