年末調整

 数日前こと。朝8時に友人のMからスマホに電話がかかってきた。
「はい」
「Mだけど」
「おう、どうした」
「年末調整をスマホでやってるんだけど、パスワード入れても画面が出てこないんだよ」
 例の如く何を言っているのか分からない。
「それでさぁ、電車でそっち(弊宅)行くから、教えて欲しいんだよ」
 Mがスマホでつまずくのは100%基本的な操作だ。
「いいけど、何時頃?」
「午前中は用事があるんで、午後電話する」
「おれ、車の12ヶ月点検で、17時に出かけるんだよ。14時までに電話くれる」
「わかった」
 と、電話を切った。

 とは言ったものの、わたしは年末調整の申請を自分でやったことがなかった。正社員の頃は会社がやってくれたし、個人事業主になってからは確定申告だけだった。

 それに、Mがうちにきても、必要書類を忘れていたら、進めることができない。うちには余裕を持って15時までに来てもらいたいが、17時までに解決できなかったら、日を改めてサポートすることになる。こちらからM宅へ行った方がいいと思った。

 午後イチ、Mから電話がかかってきた。今日中にやらなければならないのか聞いたら、18日までと言ったので、明日そっちへ行くと電話を切った。


 翌日13時頃、車でM宅に着いた。玄関を入ると、ちっとも豆じゃない豆柴のチビが、昨年と同様にわたしに向かって吠えまくってきた。
「ワンワンワン! ワンワンワン!」
「チビ、チビ」
 と呼ぶと、ほんの一瞬鳴き止むだけで吠えてくる。
 Mが、
「チビ、うるさい」
 と、言っても同じだった。

 犬の気持ちが分からん。チビはわたしと距離を置いて吠えているのではなく、わたしの脚にまとわりつくようにして吠えているのだ。
「噛みつかないだろうな」
「それは無い、大丈夫だよ」

 そして、わたしとMが和室の居間のテーブルにつくと、チビはわたしとMの間に顔だし、遠吠えをはじめたのだ。
「ウォ、ウォ、ウォーーーーン!」

 横から見ていると、あほ面に見える。そもそも、犬の遠吠えは、自分の位置を仲間に知らせたり、仲間を呼ぶ時に吠えるんじゃないのか。飼い主は隣にいるし、おまえに仲間はいないだろ。遠吠えを終えると鳴き止み、わたしたちの後ろで伏せをするようにして寝そべって大人しくなった。なんだこの犬。


 さて、テーブルの上には、Mの会社から配布されたスマホでの年末調整の操作手順書が置かれていた。

 操作手順書には、分かりやすくスマホ画面も印刷されていて、IDと仮パスワードを入力して送信ボタンを押すと、パスワード変更画面が表示され、変更後に送信ボタンを押すと、タスク画面が表示されることが記載されていた。
「この操作手順書通りやったの?」
「やった。でも、パスワード入れても画面が出てこないんだよ」
「ちょっと、やってみて」
「うん」

 Mはスマホを操作しはじめた。キーボードは、英数と一般的な記号も表示された、50音キーボードになっていたのでボタンがちっちゃい。
「よくそんな小さなボタン打てるな」
「知らないうちに変わってたんだよ」
 スマホは生き物じゃない。キミがいじっているうちに変わったんだよ。

 そして、パスワード入力後、送信ボタンを押すと、画面にはパスワードエラーが表示されたのだ。

 わたしはMが言わんとしたことがようやく分かった。Mが言った、「画面が出てこないんだよ」とはこういうことだ。

▼正常の場合
[ログイン画面]→[パスワード変更画面]→[タスク画面]
▼Mの場合
[ログイン画面]→[パスワード変更画面]→ パスワードエラー

 Mは、[タスク画面]が表示されないことを「画面が出てこないんだよ」と言っていたのだ。そりゃそうだろ、パスワードエラーなのだから。


 今一度、パスワードを入力してもらうことにした。Mが全角入力していることを疑ったからだ。しかし、パスワード入力後、パスワード表示したら半角文字だったので、送信ボタンを押してもらうとパスワードエラーが表示された。

 なせだろ? エラー画面を見ると、赤字で「形式エラー」と表示され、その下にはパスワードの条件が記載されていた。

  • 直近パスワードの5文字目までは同一にしないこと
  • 8桁以上であること
  • 英字大文字、小文字、記号、数字は1つは使うこと

 仮パスワードには記号がなく、Mのパスワードを見せてもらうと、仮パスワードに1文字増やしただけだった。それじゃダメだ。なぜ、パスワードの条件を読まない。操作手順書にも記載されているじゃないか。

 電話の時に、パスワードエラーになることを言ってくれれば、
「画面にパスワードの条件が記載されていると思うから、それ読んでもう一度やってみ」
 で済んだと思う。Mでもそれくらいはできたと思う。

 条件を満たすパスワードに変えて、送信ボタンを押したら、[タスク画面]が表示され以上終了。

「後は、18日になれば、操作手順書の通り、タスクに『年末調整』の画面が表示されるから、操作手順書通りに進めて」
「うん、分かった」
「それじゃ」
 と、帰ろうとしたら、
「あ、これ変えてくれない」
 まだあるのか。
「このキーボードちっちゃくてさ、大きくしたいんだよね」
「・・・」

 あたしゃiPhone(iOS)で、キミはAndroidスマホ。と言ってもMには理解できないか。ま、どちらもUIは似たようなものだ。Mのスマホのキーボードを表示して[⚙️]をタップ。メニューのパネル変更をタップして、「50音キーボード」から「QWERTYキーボード」に変更した。
「これでどう?」
「おお、これだよ」
「それじゃ」
「うん、ありがとね」
 M宅を後にした。


 M宅を出て10分ほど経った時、スマホにMから着信があった。運転中のわたしは、ハンズフリー通話で応答した。
「もしもし」
「あのさぁ、キーボード変えてくれたら記号が無くなったんだよ」
 しまった、QWERTYキーボードには記号は出なかった。でも、切り替えくらい分かれよ。
「恐らくだよ。キーボードの左側に、記号のボタンがあると思うからそれ押して」
「うん、わかった」

 電話を切ると、1〜2分してまたMからかかってきた。今度はなんだ。
「もしもし」
「あのさぁ、記号に変えたんだけど記号が出てこなんだよ」
「記号が出てこない? そんなばかな」
「いいや、出でこないよ」
「んー・・・」
「・・・」
「んー・・・」
「なんとかやってみるよ」
「はーい」

 もういい加減にしてくれ。電話を切って自宅へ向かった。しかし、段々とMのことが気になりはじめた。わたしは、チッと舌打ちをしてUターンした。

 M宅前で車から電話をした。
「今、自宅の前にいるんだけど、さっきの出来たの?」
「ああ、出来たよ。でも来てくれたんなら外行くよ」
 Mが出てきて、スマホを見せてもらうと50音キーボードになっていた。
「これさぁ、出来たじゃなくて戻したっていうの」

 QWERTYキーボードにして記号をタップした。するとMがいう通り、表示された記号は3つだけだった。あれ? もう一度QWERTYキーボードにして記号をタップしても同様だった。
「な、パスワードで使った記号が出ないんだよ」
 そんな筈はない。画面をよーく見ると、キーボード下に3つボタンがあり真ん中の記号ボタンをタップしたら、一般的な記号が表示された。最初に表示されたのはMの使用頻度の高い記号が表示されていたのだ。

 Mに切り替え操作をレクチャーしたが、もうわたしの感情は、机の角に足の小指をぶつけた時の怒りの矛先がない気持ちと同じだった。
「少しは考えようよ」
「うん・・・」
「じゃぁね」
「うん、ありがと」

 わたしはMが年末調整の申請をする18日に電話がかかってこないことを祈るばかりなのである。

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