
只今、YouTubeの東映シアターオンラインでは、五・一五事件から二・二六事件までを描いた映画「動乱」(1980年作品 監督:森谷司郎 主演:高倉健、吉永小百合)が、2月26日まで無料配信されている。
高倉健が演じる皇道派の陸軍青年将校「宮城啓介大尉」は架空の人物。モデルは陸軍歩兵大尉「野中四郎」とするサイトがいくつかあるが、それにしては史実とかけ離れた人物描写で創作山盛りの脚色だ。映画の宮城大尉はクーデター(二・二六事件)に積極的だったが、実在の野中大尉は消極的だったし、事件後も宮城大尉は銃殺刑だったが、野中大尉は自決している。私感として宮城大尉は誰という特定のモデルはなく、皇道派の陸軍青年将校らの総称の人物として観た方がしっくりくる。
二・二六事件は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した、皇道派の陸軍青年将校・下士官・兵士ら1,483名と北一輝など思想家・民間人を含めた計1,558名によるクーデター未遂事件。
この事件で、総理大臣経験のある高橋是清(大蔵大臣)と斎藤実(内大臣)、渡辺錠太郎(教育総監・陸軍大将)、松尾伝蔵(総理秘書官・陸軍大佐)、警察官5名が殺害され、鈴木貫太郎(侍従長・海軍大将)、警察官などが重傷を負った。なお、岡田啓介総理は、襲撃グループが岡田と松尾を誤認したため難を逃れた。
二・二六事件の原因については、文末に貼ったリンク「青年将校が立ち上がった『二・二六事件』その原因とは」を読んでいただくか、映画を見れば分かるので省略します。
さて、二・二六事件が失敗した理由は、皇道派将校らがあまりにも昭和天皇の意思を知らな過ぎだったことだと思う。昭和天皇が皇道派将校らと同じ意思であったならば、少なくとも彼らは反乱軍になることは無かったことだろう。
皇道派将校らの最終目的は、昭和天皇自らが政治を司り実効統治してもらうことだった。その根拠として、大日本帝国憲法「第1章 天皇 第1条」に記されている『大日本帝国は、永遠に一つの系統を継承していく万世一系の天皇が統治する。』を挙げている。
しかし、大日本帝国憲法「第1章 天皇」は17箇条から成るが、天皇自らが政治を実効することも、法を定めなければならないことも書かれた条項は1箇条もないのである。皇道派将校らが第1条だけに固着したのは、軍人であるが故の悲しい性としか思えてならない。
そもそも大日本帝国憲法は、プロシア憲法を模範とし草案が作成された。そして、「第1章 天皇」を読む限り立憲君主制憲法だ。
立憲君主制とは「君臨すれども統治せず」の意味で、国王は君主として君臨しているが、統治権は議会を通じて国民が行使するということだ。
昭和天皇自身、皇太子時代にイギリスを訪問して立憲君主制に感銘し、のちに「現人神」と言われることを嫌い、天皇機関説(立憲君主制)に賛成していたそうだ。
そして、昭和天皇が一気に立憲君主制に傾倒していったのが、1928年(昭和3年、民国17年)6月4日に発生した張作霖爆殺事件以降だ。この事件は関東軍が国民革命軍の仕業に見せかけ、それを口実に南満洲に進行し占領しようと画策したもので首謀者は河本大作参謀(大佐)だった。
田中義一総理は、「たとえ、自称にせよ一地方の主権者(張作霖)を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である」ことを昭和天皇に上奏し、軍法会議を開いて徹底的に処罰する考えも鈴木貫太郎侍従長に伝え、鈴木から昭和天皇に言上されていた。
ところが、閣議では主として鉄道大臣の小川平吉の主張だそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云う議論が強く、閣議の結果はうやむやのまま終わってしまったのだ。
恐らくこの時に田中総理は関東軍の謀略であったことと、河本が、
「軍法会議にかけられるのなら、謀略を全部暴露する」
と、脅迫していることを知ったのだと思う。
弱った田中総理は、再び参内し昭和天皇に、閣議がうやむやのまま終わったことを言上すると、昭和天皇は語気を強め、
「この前の言葉と矛盾するではないか。うやむやの中に葬るのか!」
と、返した。田中総理は恐縮して、
「そのことについては、いろいろ御説明申し上げます」
と、申したが、昭和天皇は、
「説明を聞く必要はない。辞表を出してはどうか」
と、玉座を後にした。
また、この頃であろう、当事件が国際的に日本の謀略ではないかと疑われると、陸軍は河本らが政府や陸軍上層の許可を取らずに単独で行った謀略とし、河本をひそかに退役させたのだ。
かくして、1929年(昭和4年)7月2日、田中内閣は総辞職する羽目になったが、田中は相当ショックを受けたのだろう、同年9月29日午前6時に狭心症により死去した。
昭和天皇が諸般の事情を知ったのは田中が亡くなった後だった。田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感した。
イギリス式の立憲君主方式を理想とする西園寺に、「自分の意見を直接に表明すべきでない」と戒められた昭和天皇は、のちに「あの時は自分も若かったから・・・」(当時27歳)と鈴木侍従長に述懐したが、このこと以降、次第に政治や軍部の決定に「不可」をいわぬ「沈黙する天皇」を自らつくりあげていった。
- この事件は、昭和天皇の立憲君主制への心構えのスタートであったのである。
- 天皇陛下は財政に明るい人物を尊重する傾向がある。
さて、二・二六事件の首謀者は尉官だった。旧日本軍の階級を会社の役職に置き換えるとしたら尉官は係長クラスだろう。昭和天皇は大元帥なので名誉会長でいいだろう。
係長クラスの社員が重役らをボコっといて、
「名誉会長、我々と新しい会社を作ってください」
と、突然言われてもねぇ。
名誉会長にとっては青天の霹靂だ。何がどうしてこうなったのか理解が出来ないし、係長ごときが、何してくれとんねん! 会社を潰す気か!! と憤ることだろう。
したがって、昭和天皇は、
「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校ら、その精神に於ても何の恕すべきものありや。朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり。朕自ら近衛師団を率いて、此れが鎮定に当たらん」
と激怒し、岡田総理(暗殺未遂)に相談しようとしたが連絡が取れない。えらいこっちゃ、えらいこっちゃと、憲法「第1章 天皇 第14条」に則り、戒厳令を布告する英断を下したのである。
これにより、クーデターを起こした青年将校らは反乱軍(賊軍・賊徒)となり囚われ、事後の軍法会議では、弁護人は一切付せず、審議は一切非公開のまま、一審即決上告を許さずの戒厳令下における暗黒の裁判で、まるでチリチリと黙って燃やされる新聞紙の如く、首謀者らには死刑・無期禁錮の重罰が科された。なお、事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将は証拠不十分で無罪となっている。
用意周到に計画を立てたクーデターではあったが、昭和天皇の意思も考慮せず、自分たちの理想図ばかりを描き続けたばかりにボタンの掛け違いに気付かぬままバッドエンドのエピローグで幕が下りたのである。
因みに、昭和天皇はこの事件以降も政府の方針に不満があっても口を挟むことはなかったが、一度だけ口を挟んだことがあった。それは「日本のいちばん長い日」の御聖断だった。
旧日本軍の主な階級を会社の役職に置き換えるとこんな感じ
【将官】
大元帥(天皇)≒ 名誉会長
元帥 ≒ 会長
大将 ≒ 社長
中将 ≒ 専務、常務
少将 ≒ 平取
【佐官(上級士官)≒ 部課長クラス】
大佐、中佐、少佐
【尉官(下級士官)≒ 係長クラス】
大尉、中尉、少尉、准尉=兵曹長(海)
☝︎ここまでを将校という
【兵卒:下士官 ≒ 主任クラス】
陸:曹長、軍曹、伍長
海:上等兵曹、一等兵曹、二等兵曹
【兵卒:兵 ≒ 平社員】
陸:兵長、上等兵、一等兵、二等兵
海:水兵長、上等水兵、一等水兵、二等水兵
※三等兵という階級はない。兵卒の最下層は二等兵。しかし、誰しも自分より下を作りたいものだ。入社2年目の社員が新入社員を「新人」と呼ぶのと同じように、二等兵らが新入隊員を「三等兵」と呼んだ。



















