わたしの母は、昭和9年(1934年)、当時日本の植民地だった台湾の花蓮で生まれ、終戦の翌年昭和21年(1946年)初秋に日本へ引き揚げるまでの12年間をここで暮らした。
終戦後、台湾にやってきたのが蒋介石率いる中国国民党軍(中国革命軍)。彼らは日本軍の武装解除が目的だったため、日本軍・日本人の引き揚げに協力的だった。終戦から日本へ引き揚げるまでの1年間、台湾は満州・朝鮮と比べると日本人への略奪や暴行が極めて少なかったようで、引き揚げもスムーズに行われたと、母は言っていた。
ただ、引き揚げるまでの間、中国人兵士(中国国民党軍)が日本の子どもを拐い、売り飛ばすという流言蜚語が飛び交ったそうだ。
小学生だった母は、まことしやかな噂を真に受けたのだろう。ある日、道を歩いていると、前方から中国人兵士がニコニコ笑ながら、母に近づいて来たそうだ。母は無我夢中で逃げだすと、その中国人兵士も小走りで母を追ってきたが、途中で追うのを諦めたので逃げ切ることができた。母は「とても怖かった」と、言っていた。
ところが、引き揚げるとき、乗船前の検閲で、その中国人兵士(階級は不明だが将校だった)がいて、母は『とうとう私は拐われるんだ』と、観念していると、その中国人将校も母のことを覚えていて、通訳に、
「この子が、あまりにも可愛かったので、チューインガムをあげようと思った」
と、笑いながら話したそうだ。母は胸をなでおろしたと、言っていた。
母は、小学生からの下校途中に、台湾人の男の子たちから、
「ちゃんころ、ちゃんころ」
と、からかわれたことがあった。
負けん気の強かった母は、
「バカ、ちゃんころはお前たちのことだ!」
と、言い返したら、台湾人の男の子たちはキョトンとした顔をして黙り込んでしまったそうだ。
『窓際のトットちゃん(黒柳徹子著)』にも、戦前朝鮮人の男の子から、
「朝鮮人、朝鮮人」
と、軽蔑した言われ方をされたことがあったと書かれているが、『ちゃんころ』も『朝鮮人』も、子どもたちはその言葉の意味は理解してなくとも『相手を罵る言葉』であることは知っていたのだろう。
因みに、日沈む国の中国人が、日いづる国の日本人を軽蔑するときに使う言葉が、日本鬼子、小日本、日本狗(日本犬)、日本猪、東洋鬼など。
中国人妻を持ち、仕事でもプライベートでも中国に行くことのあるわたしの友人は、中国人に、
「シャオパンズ(小胖子・こでぶ)」
と、あだ名を付けられたが、
「シェイシェイ(謝謝・ありがとう)」
と、お礼を言って喜んでいる。

















