【映画】連合艦隊

1981年(昭和56年)8月8日公開
<スタッフ>
監督:松林宗恵 脚本:須崎勝彌
製作:田中友幸
音楽:服部克久 谷村新司
<キャスト>
小林桂樹 丹波哲郎 中井貴一 永島敏行 金田賢一 古手川祐子 丹波義隆 なべおさみ 佐藤慶 三橋達也 中谷一郎 財津一郎 高橋幸治 長門裕之 森繁久彌 鶴田浩二 平光淳之助(ナレーター)

中鉢ニ飛曹について

『連合艦隊』パンフレット 監督松林宗恵、映画評論家増淵健の対談より抜粋

※中鉢ニ飛曹について
(前略)
増淵:あのパイロットも印象的でした。
松林:脚本では、彼は青木ニ飛曹となっていましたが、私が中鉢(ちゅうばち)という姓に変えました。私の部下に中鉢という十八才の少年兵がいて、彼のことを思い出しながら、演出したのです。
松林:中鉢と会ったのは、私が少尉に任官した時です。廈門(あもい)方面へ出動することになり、横浜で部隊と合流して、輸送船を待ちました。ある日、海軍省で軍需物資をもらって戻ってきたら、向こうから、口を動かしながら歩いてくる兵隊がいる。
「待て」
と呼びとめたら、胸に松林部隊・中鉢一水と書いてあった。
「口をあけろ」
というと、南京豆を食べていた。私は彼を殴りました。中鉢は硬直していました。帰って彼の書類を見たら、福島県出身で母一人・子一人とあるのです。私は、なにかひっかかるものがあって、中鉢を呼びました。彼は、また殴られるのかと思って、緊張していました。私は、乾メンボウというパンを三枚とヨーカンを二切れ出して、食べろといいましたが、中鉢は食べない。隊長の目の前では食べられないんですね。私は、
「ちょっと出て来るから、ここで食べろ。食べ終わったら、帰っていい」
といいました。ひとまわりして帰ってきたら、全部食べていました。
増淵:……
松林:一か月後、私の部隊は震洋艇の小田部隊と廈門へ向かいました。あと二時間で目的地へ着くという時、B24が二機やってきて猛烈な爆撃をした。私は艦橋で対空指揮をしていまして、兵隊たちは船倉にいました。空襲で機銃員が死んで、艦橋は阿鼻叫喚でした。B24が去ったので、死体を片付けて船倉へ降りて行くと、小田部隊の兵隊が一人死んで、私の部隊では中鉢がやられている。爆弾の破片が船倉の壁をブチ抜いて入ってきたんですね。破片は、小田部隊の兵隊の首をはねて、反対側にいた中鉢の腹をえぐった。内臓が飛び出したので、そばにいた下士官や兵隊が急いで押しこみ、包帯を巻いて、応急手当をした。
「どうした?大丈夫か」
と声をかけたら、青色い顔をした中鉢が
「大丈夫です。隊長、大丈夫です。」
私は彼がやられた状況から、長くはないんじゃないかと思いました。そこで、
「なにか食べたいものがあったら、遠慮なくいえ」
といいました。中鉢は答えない。
「本当にないのか?」と念を押すと、彼は
「パイ罐(パイナップルの罐詰)……パイ罐が食べたいであります」
と答えた。
増淵:……
松林:パイ罐は、船倉の一番下に入れてありました。だから、大仕事でしたが、とにかく、パイ罐を出して、中鉢に食べさせた。彼は一切れ口に入れてから、
「うまいです」
といいました。廈門へ着いて、軍医に、負傷の状態を説明したら、
「それはダメですね。」
とニベもない。
「そんなことをいうな、診ろ」
といって、中鉢を病院へ入れましたが、一時間ぐらいして亡くなりました。
増淵:……
松林:二里ほど歩いて、山奥の不気味な焼場に行きました。隠亡(おんぼう)に金をやって焼いてくれるよう頼んで帰ってきました。翌朝三時頃、骨を拾いに行った部下が、
「隊長、中鉢のあばら骨の下からこれが出てきました」
……血のついた鉄塊を差し出すんです。腹をえぐったと思った破片が、腹の中にあったんですね。予科練出のパイロットのシーンは、中鉢への思いをこめて演出したつもりです。
増淵:「連合艦隊」は、中鉢一水への鎮魂の映画でもあるわけですね。一本の映画の背景に、映画にあらわれないドラマがあることがわかりました。
(後略)

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