柔道の思い出

 小1の時、桜木健一主演の柔道一直線の影響を受けて、当時市内にあった柔道教室(以下、道場)に週2回通い始めた。学校で柔道をはじめたことを言うと友達らの羨望のまなざしを受けたのを覚えている。

 一条直也が黒帯で柔道着を巻き、肩からかけて歩いているのが格好良かったので、それを真似て家から道場まで通おうかと思ったが、白帯ではおかしいと柔道着は鞄に入れて通った。道場の生徒は10数名でみな小学生。通い始めた頃はわたしが最年少だったと思う。

 稽古は準備体操と受け身から始まった。畳に座り上半身は起こし両脚は伸ばして、上半身を後ろに倒し両手を畳にバシッと叩き同時に両脚は上げる。この時に教わったことは、後頭部が畳に当たらないように顎を引くことだった。学校での体育の授業や遊んでいて背中から倒れた時に大いに役立った。後頭部を地面に当てることがなくなったからである。

 その次は、跳び受け身の練習をした。生徒は四角い道場の二辺の角に集まり対角線上の反対側の角に向かって走り、ちょうど真ん中辺りで跳び受け身をする。初心者だったわたしは、先生に道場の中央に誘導され、両手の付き方、転がり方を教わった。その後もしばらくは真ん中まで歩いていきそこで受け身をしたが、わたしひとりだけそれをやっているのが恥ずかしかった。早く他の生徒と同じように一辺の角から走って跳び受け身をしたいと思った。跳び受け身をしてもいいように言われたのは通い始めてから1ヶ月が過ぎた頃だったろうか。

 跳び受け身が終わった後は二人一組での段取りを行った。段取りの相手は先生が決め、わたしの相手はみんなから “だいちゃん” と呼ばれていた1学年上の生徒だった。わたしは小1の平均的身長だったが、小2のだいちゃんはわたしの肩くらいの小柄の体格だった。身体が小さいのに、だいちゃんと呼ばれているのだから “だい” ではじまる名前だったのだろう。わたしはだいちゃんとしか覚えていない。

 ところが、このだいちゃん、身体が小さい割には俊敏で、技をかけるのが早く、わたしはころっことっと投げられっぱなしだった。反対にわたしが外掛け、内掛けをかけてもビクともしない。子供は1学年違うと体力差は大きい。だいちゃんにしてみれば、ひとまわり以上体の大きいわたしをいとも簡単に倒すのだから、さぞや気持ちがよかったことだろう。だいちゃんにとって、わたしは恰好の段取り相手だったと思う。いつも段取りを始める前にニッと小2のガキには似つかぬニヒルな笑みを浮かべていた。何故かいつもだいちゃんが段取り相手になるので憂鬱な時間帯だった。

 わたしがかけた技が下手に決まりそうになると、だいちゃんはスネ夫みたいな声で、
「なんだよ、生意気だぞ」
 と、脅され、わたしは萎縮した。

 そんな憂鬱な段取りが続いたある日、わたしが何の気なしに背負い投げをしたらこれが気持ちいいほどにバッチリ決まってしまいだいちゃんは転がった。

 わたしはしまったと思ったが、だいちゃんは罰が悪かったのだろう、すぐに起き上がるや否や、
「おまえ、何やってるんだよ!」
 と、わたしの腹を何度も何度もグーパンで小突き始めたのだ。

 わたしは、
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 と、ひたすら謝り続けたのだが、そのうちになんで自分が謝らなければいけなんだ、もうこんなのイヤだと、泣き出してしまったのだ。

 子供通しでも泣く子には勝てず、泣かれると手を出すのを止めて大人しくなるもので、だいちゃんも自分に非があることは分かってたのだろう、グーパンを止めて泣き出したわたしをどうすることもできず罰の悪そうな表情で苦笑いするだけだった。そして、わたしが泣いていることに気がついた先生が近づいてきて、
「どうした」
 と、わたしから事情を聞くと、先生は、
「よしよし」
 と、わたしを慰め、だいちゃんを責めて叱ることもしないで、これ以降、わたしはだいちゃんと段取りをすることはなくなった。

 だいちゃんは、道場で1、2を争う強い高学年の生徒らと段取りをすることが多くなり、その様子を見ていると、わたしの時の打って変わって態度が変わり、借りてきた猫のように大人しく稽古をしていた。

 わたしはその様子を見て、ニンマリしたものだったが、新しい段取り相手は、わたしより頭ひとつ出る長身の1学年上の生徒だった。そして、組み合うと無表情で、けたぐりをしてはニヤリと笑うのだ。足払いではない、けたぐりだ。それも足の裏ではなく足の内側面の骨の部分でわたしのくるぶしの上あたりを蹴飛ばしてくるので痛い痛い痛い。だいちゃんといい、この生徒といい、1学年上はこんな奴らばっかりなのか?

 でも、この生徒は、痛いからやめてとお願いすると、けたぐりをすることはなくなり、わたしが技をかけると、わざと倒れてくれたりして、適当にわたしを弄んでいたのかもしれない。

 小2の時、1度だけ市内各道場の生徒たちが一同に集まる大会に出場した。結果は1回戦引き分けでくじを引いて負けた。

 大会を終え、わたしの誘いで同じ学校の同級生が入門した。体躯はわたしより少しだけ大きかった。わたしは先生から、その同級生に稽古をつけるように言われ、結構得意げになり先輩面でその同級生に稽古をつけたことがあった。

 道場には先生の父親だと思うが、年配の大先生が時々稽古をつけてくれた。紅白の帯を締めた高段者だったが、わたしには単にきれいな帯しているなぁくらいにしか思わなかった。そして、大先生に巴投げをされ、宙を舞い着地するのが楽しかった。

 ある日、大先生に巴投げをされ着地した時、右足を挫いてしまい、右足を押さながらヒーヒー泣いたことがあった。幸い・・・後にちっとも幸いではなく災いのはじまりだったのだが、この道場ではほねつぎ診療所もやっていて、大先生は診療所でわたしの挫いた右足を摩りながら、
「捻挫だよ。大丈夫、大丈夫」
 と、やさしく言って湿布をしてくれた。

 ところが、数日経ち、足の腫れも引き湿布もすることがなくなったのだが、歩き方によっては右足の痛みが多少残ったのだ。また走っている時に右足を踏ん張るとその痛みが増すため、右足はちょっと内股加減にして痛みをかばってびっこで走っていた。すると、その様子に気がついた健康管理にはうるさかった父がおかしいと感じたのだろう、母に整形外科に連れていくように言い、母に連れられて整形病院でレントゲンを撮ったら、なんと右足の甲の骨が外れていたのだ。

 すぐに外れた右足の骨は医師に正常に戻してもらったが、その後、右足をくじくとすぐに骨が外れる癖がついてしまい、3度目に外れた時にとうとう1ヶ月間、ギプスで足を固定することになってしまったのである。小3の夏休み前の7月だったと記憶する。

 ギプスは右脚の膝下からつま先が見えるくらいまでガーゼをぐるぐる巻きにして、その上を石膏で固められ、今からするとかなり大袈裟なものだった。

 自宅から小学校まで徒歩5〜6分ほどの距離だったが、投稿時は自転車の荷台に乗せられ母に引かれて通学し、下校時も母が自転車で向かえにきて下校した。

 通学中、周りの生徒からはぎょろぎょろ見られ、
「あの子、足ないよ」
 と、言われたこともあるが、あるわいと、ばかりにギプスの脚をブラブラと揺らしてみせたこともあった。

 夏場でもあったため夜は参った。入浴のことは覚えていないが、ギプスを濡らすこともできない。いつの間にかギプスの中にダニが侵入したのだろう。袋はぎが痒くて痒くて堪らないのだが掻くこともできない。毎晩満足に寝ることもできなかった。

 ギプスをしていたため、学校の体育の授業は見学。休み時間も教室。家に帰ってからも外で遊ぶこともできない。悶々とした気持ちで夏休みを向かえ、漸くギプスを外したのは、夏休みの2週間ほど経った頃だったと記憶する。子供にとっての1ヶ月は長かったと思う。ギプスを外す日はさぞうれしかったことだろう。ところが病院では人間解体ショーに出てくる電動ノコギリの小型版でギプスは切り取られていったのだが、わたしは脚を切られるのではないかと、ギャーギャー騒いでいた。傍にいた母は笑い出し、医師は何も黙ったまま電ノコでギプスを切っていた。そして、ギプスが取り外されると、成長期だったので右脚は左脚より貧弱で一回り小さく不安になったが、医師から、
「すぐに元に戻るから心配ないよ」
 と、言われほっとしたのを覚えている。

 小3の夏休みの前半は遊ぶことができずに棒に振ってしまったくやしい記憶より、夜の脚の痒みのほうが印象に残っているが、ギプスを外した後、遊べなかった分を取り戻すように思い存分に遊びほうけたので遊べなかったという記憶がないのかもしれない。

 そんなこんなで、わたしはこれ以降ほねつぎ(接骨院)というものを信用しなくなり、母も、
「こんな仕打ちをされたところには通わせられない」
 と、柔道は辞めることになった。きっと、わたしが素直に承諾したのは、クラス仲間が放課後野球を楽しんでいた時もわたしはひとり道場に通わなければならず、柔道の稽古が終わった時の爽快感はあったが、やっぱり野球だよなぁと言う気持ちの方が強かったのだと思う。

 小4の時、体育の授業中に右足を挫き、また骨が外れた。整形外科へ行くと医師はギプスの準備をしたが、わたしが、
「もうギプスは嫌だよ」
 と、半べそをかき拒否したことで、足型のダンボールを右足に当てて、その上から包帯をキツクぐるぐる巻いて固定する処方で治すこととなった。ギプスの時を同じ期間固定していたかな。

 小5の時も骨が外れたことがあったが、整形外科ではギプスをする処置はされなかった。うろ覚えだが、段々と大人の骨に形成されつつあり、医師はギプスをするまでもないと判断したのだろう。実際にその後は足を挫いても骨が外れることはなくなった。

 小5のある日、わたしが柔道に誘った同級生と道でばったりあった。この同級生、わたしが誘った当時は同じ学校だったのだが、生徒数が多くなり小5に進級するとき新設された学校に転校していた。

 久しぶりに会い、近況を話していると、
「オレ、市内小学校柔道大会で優勝したよ。もう、おまえには負けないよ」
 と、言われた。

 なにを! 昔取った杵柄、今でもおまえには負けないぞ! という負けん気と自分も柔道を続けていたらよかったかなぁという後悔があった。

 やさしい同級生だった。ふたりで道場に通っている頃、稽古が終わると同級生はいつも近くの雑貨店で当時40円だった肉まんをひとつ買っていた。しかし、わたしはいつもポケットに10円しかなかったので、肉まんを買うことができず、一口くれと持っている10円を同級生に渡していた。すると、この同級生は、いつも肉まんの半分をわつぃに分けてくれたのだ。食べ物の恨みは怖いと同じく、食べ物の恩は一生忘れないものだ。

 久しぶりにあった同級生との立ち話は5分もしなかったと思うが、それじゃぁと別れ、その後、この同級生とは会うことはなかった。

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