因果応報の秀吉

 歴史研究者の高橋陽介著『シン・関ヶ原』(講談社現代新書)を読んだ。歴史好きの間で話題になっている本だ。

 著者は、慶長5年(1600年)9月15日に美濃の関ヶ原で起こった戦闘の経緯について、後世に編纂された史料はもちいず、同時代の一次史料(徳川家康をはじめとする諸将の間でかわされた170通余りの書状や日記など)を収集・分析して新説を提起している。

 本書では、豊臣秀吉が死去した時点で、「徳川家康はすでに天下人であった」ことを大前提とした新説で、従来の通説、豊臣政権下での石田三成vs徳川家康の「関ヶ原の戦い」の対立構図に異論を唱える内容なのだ。わたしは大の歴史好きではないが、ワクワクしながら読み進めた。

 興味があり、一気読みしたいのなら本を購入するといいが、ネットにも本書より抜粋・編集した記事がアップ(12/8現在「第六章」)されている。以下のリンクから読むことができる。


 歴史研究者たちの見解では、家康の「問い鉄炮」はなかったとする見方が、ほぼ結論となりつつあり、「直江状」や「小山評定」の存在も疑問視され、関ヶ原で「天下分け目の戦い」というものが本当にあったのかと、疑われはじめている。

 「問い鉄砲」がないのなら、小早川秀秋が裏切ったのは開戦前になる。秀秋が開戦前のどのタイミングで東軍へ寝返ったのか、歴史研究者の間で議論になっている。

 そもそも従来の「関ヶ原の戦い」の通説は創作が多く、近年では「虚構性」を指摘する歴史研究者も多いようだ。

 20世紀初頭に旧帝国陸軍参謀本部が、一次史料のほかに、江戸時代の『関ヶ原軍記大成』『徳川実記』などさまざまな史料も収集して編纂発行した『日本戦史 関原役』(陸軍参謀本部編、1911年)が、多くの軍人に読まれ影響を与えた。

 更にこれらの通説を元に、1960年代に司馬遼太郎の長編歴史小説『関ヶ原』が上梓された。「謀略に長けた老将家康」と「正義感が強い智将三成」の対立軸を中心とする「戦国時代を総括する天下分け目の戦い」という構図はきわめて魅力的で、多くの読者を獲得する。

 累計発行部数580万部以上、ドラマ化・映画化もされ、この時代を取り上げた戦国ドラマや映画でも“司馬関ヶ原”を参考にしたことだろう。こうして多くの日本人に「関ヶ原像」が定着した。


 史料を読み解く場合、歴史研究者の解釈で異なり、時系列の史料で空白の期間は、どうにでも創作ができる。また、江戸時代の『関ヶ原軍記大成』『徳川実記』は徳川史観だ。徳川贔屓に脚色されていることだろうし、史実も改変することができるのだ。

 司馬遼太郎は小説家だ。多くの読者を惹きつける文才で脚色もできれば、たぶんこうだったんじゃないかなと、読者ウケする創作もできたのだ。

目次

徳川家康はすでに天下人であった

 本書では、豊臣秀吉が死去した時点で、「徳川家康はすでに天下人であった」ことを大前提として、新たな見方を導き出して、いくつかの論点を示している。

Amazon『シン・関ヶ原』より抜粋

【本書が提唱する、おもな新説】
関ヶ原の戦いは「天下分け目の決戦」ではなかった!
徳川家康はすでに天下人だった!
石田三成は西軍の首謀者ではなかった!
小早川秀秋は合戦中に裏切っていない!
東西両軍は開戦前に和睦していた!
両軍の合計は3万ほどだった!
【これらもすべてフィクションだった!】
秀吉死後の豊臣政権を運営したのは「五大老五奉行」 
石田三成と直江兼続による徳川家康挟撃の謀議
福島正則が徳川家康に忠義を誓った「小山評定」
もともと低かった毛利輝元の戦闘意欲
関ヶ原に結集したのは両軍合計15万
家康が小早川秀秋の離反を催促した「問い鉄砲」
秀秋の裏切りによって壊滅した大谷吉継勢・・・・・・

五大老・五奉行の呼称は江戸期に作られた造語

 わたしは小学校の授業で「五大老・五奉行」と教わった。秀吉の遺命で、合議制で豊臣政権を支えるというものだ。

五大老(五人の衆・年寄)

  • 東軍:徳川家康(57)[関八州:武蔵・伊豆・相模・下総・上総・上野・下野など255万石余]
  • 西軍:毛利輝元(47)[安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・伯耆・備中など120万5千石]
  • 前田利家[北陸:能登・加賀半国など83万石]1599年没、享年62
    
∟ 東軍:前田利長(38)[北陸:越中・加賀半国など61万石]
  • 西軍:宇喜多秀家(28)[山陽:備前・美作・備中半国・播磨赤穂郡など57万石]
  • 小早川隆景[九州:筑前など37万石]1597年没、享年65
  • 西軍:上杉景勝(44)[奥羽:会津・置賜・庄内および北陸:佐渡・東蒲原など120万石]
    ※カッコ内の数字は関ヶ原の戦い時の年齢

五奉行(五人の物)全て豊臣家臣

  • 東軍:浅野長政(53)[甲斐甲府22万石/主に司法担当]
  • 西軍:前田玄以げんい(61)[丹波亀山5万石/主に宗教担当]
  • 西軍:石田三成(41)[近江佐和山19万4千石/主に行政担当]
  • 西軍:増田ました長盛(55)[大和郡山22万石/主に土木担当]
  • 西軍:長束なつか正家(39)[近江水口5万石/主に財政担当]
    ※カッコ内の数字は関ヶ原の戦い時の年齢

 ところが、この呼称は、江戸期に入ってからの造語で、「五大老」は『武家事紀(山鹿素行)』に、「五奉行」は『太閤記(小瀬甫庵)』などに見られ、「五大老・五奉行」という呼び分けが定着するに至った。

 豊臣政権時の史料には、家康らを「大老」と呼んだ例はない。秀吉は家康らを「五人の衆」、三成らを「五人の物」としていて、諸侯らは家康らを「御年寄衆」「御老中衆」、三成らを「御奉行衆」とした。

 これに相反して、浅野長政を除く、五奉行の三成らは、家康らを「御奉行衆」、自分らを「年寄共」としている。

  • 秀吉の現存する遺書の明文では、家康らを「五人の衆」、三成らを「五人の物」としており、それ以外の呼称は確認できていない。
  • 石田三成は秀吉の死の直前から、家康らを「御奉行衆」、自分らを「年寄共」とした文書を多数発給した。
  • 前田玄以・増田長盛・長束正家も家康らを「御奉行衆」、自分らを「年寄共」とした。
  • 島津義久の書状では、家康らが「御老中衆」、三成らが「御奉行衆」と書かれている。
  • 加藤清正の書状では、家康らが「日本御年寄衆」、三成らが「御奉行衆」と書かれている。
  • 毛利輝元家臣、内藤隆春は三成らを「五人之奉行」としていた。
  • 醍醐寺座主ざす義演ぎえんも三成らを「五人御奉行衆」としていた。

 いわゆる「五大老・五奉行」の面々を見ると、五大老は豊臣政権以前からの戦国大名で、五奉行は皆、秀吉から領地を与えられた秀吉家臣の大名だ。豊臣政権の執務は、三成ら五奉行がこなしてした。

秀吉は家康に後事を託した

 慶長3(1598)年7月15日、みずからの死期を悟った豊臣秀吉は、最大の実力者である徳川家康に後事こうじを託し、政権を家康にゆだねることとした。そして嫡子の秀頼が成人したあかつきには政権を返還するよう、家康に依願した。

裏付ける史料

  • 宣教師フランシスコ・パシオがローマに送った報告書『フランシスコ・パシオ師の太閤秀吉の臨終についての報告』
  • 日本にいた朝鮮の重臣姜沆カンハンが朝鮮王国へ提出した報告書『看羊録』
  • 諸侯が家康に差し出した起請文

 報告書には秀吉が家康に後事を託したことが書かれていて、起請文には、「秀頼への奉公・裏切らないこと」「家康の裁定に従うこと」などが書かれている。

 わたしは、秀頼の後見人家康が主導となり、家康ら年寄衆、三成ら御奉行衆の合議制は機能していなかったのではないかと感じた。

決起当初の西軍参加者

 前田玄以、増田長盛、長束正家、毛利輝元、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継、石田三成、島津維新(義久)の9名。なお、輝元は瑶甫恵瓊ようほえけい(安国寺恵瓊)の呼びかけに応じて参加。

首謀者

 前田玄以、増田長盛、長束正家の3名。徳川家康弾劾だんがい状「内府ちがいの条々」を諸将に送り、家康打倒の決起を促した。

 なお、長盛は家康打倒に積極的で、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いにも挙兵するが、家康の重臣である永井直勝に内通して三成挙兵を知らせたりする表裏者・保身者だった。三成の軍資金・兵の援助要請にも応えていない。

主導者

 毛利輝元、増田長盛

戦後の処置

 著者は“きわめて政治的な決着”とし、家康は「真実を明らかにすること」ではなく、「すみやかに事態を収めること」を優先したと分析している。

 家康は毛利輝元と増田長盛を大坂城から交渉によって退去させようとした。秀頼がいる大坂を攻撃することはできないからだ。家康は輝元の「全て恵瓊の企み」という釈明を受入れ、挙兵した石田三成、瑶甫恵瓊、小西行長を首謀者に仕立て上げ、事態を収束させた。

処罰された西軍大名

  • 石田三成
    改易。京都引き廻しの上、六条河原で処刑(享年41)
  • 瑶甫恵瓊
    同上(享年63または65)
  • 小西行長
    同上(享年42)
  • 毛利輝元
    所領安堵と引き換えに大坂城を退去させたが、その後、西軍総大将として積極的に軍勢を指揮していたことが発覚。吉川広家らの尽力により、改易は免れたが、安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・伯耆・備中など8ヶ国120万5千石から、周防・長門2ヶ国の29万8千石に減封された。
  • 宇喜多秀家
    改易(薩摩へ逃亡→八丈島配流)
  • 上杉景勝
    奥羽(会津・置賜・庄内)および北陸(佐渡・東蒲原など)120万石の所領没収。米沢30万石へ減封
  • 増田長盛
    出家して謝罪したが改易。所領没収のほかに金1,900枚と銀5,000枚を差し出して命だけは助けられ、身柄は高野山に預けられた。
  • 長束正家
    戦後捕縛され改易。弟・直吉と共に家臣・奥村左馬助の介錯で切腹(享年39)

処罰を免れた西軍大名

  • 前田玄以
    秀頼の警護を大義とし、大坂城内で中立の立場で静観し、軍事行動(挙兵)を起こさなかったことが評価され、丹波亀山5万石の本領を安堵され、初代藩主となった。

因果応報の秀吉

 さて、本書とは関係がないが、わたしは“秀吉が家康に後事を託した”ことが、豊臣崩壊の起因だと思った。

 秀吉が主君信長様亡き後、何をしたのか。

 まず、謀反人明智光秀との山﨑の戦いで勝利し、光秀は坂本城へ敗走する途中で農民の落武者狩りに遭い、竹槍で刺されて殺害された。これは主君の仇討ちができてよかったでしょう。

 しかし、それからは、清洲会議で信長の後継者を決める時、柴田勝家・丹羽長秀が三男の信孝を後継者として推したのに対し、秀吉は信忠の嫡男三法師を推し、三法師が織田家の後継者を勝ち取り、秀吉が後見人となった。

 そして、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで勝利して、勝家を切腹させ、佐久間盛政は捕縛して死罪。まあ、勝家方だった前田利家は、秀吉の旧友で内通していたのか、戦いには参戦しなかったので、本領の安堵に加えて、盛政の旧領・加賀国のうち二郡を加増しましたけどね。

 秀吉と対立していた信孝は、勝家が亡くなり後ろ盾がなくなり、秀吉の命令で信雄のぶかつの兵が信孝の居城岐阜城を包囲して、信雄の命令で信孝は切腹した。

 信雄は事実上、秀吉配下になっちまったし、秀信(三法師)も織田家の1大名にされ、つまるところ、三法師の後見人である秀吉に織田政権はピリオドを打たれ、秀吉は1585年(天正13年) 関白に就任。四国平定も行い、翌1586年(天正14年)には、天皇から「豊臣」の姓を下賜かしされ、太政大臣に就任し、豊臣政権を確立して、1590年(天正18年)小田原征伐を終えて天下統一を果した。

 きっと、内大臣(内府)であり、豊臣政権のNo.2だった家康も秀吉から「秀頼の後見人になってください」と、お願いされた時点で、家康は秀吉と同じことを目論んだはずだ。因果応報ですね。

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